新田は北の最果て、能登の山奥へ落ち延びました。住み着いた能登の田畑は新田の紋の形になっており、外敵から侵略を受けた際は、中央の道(新田紋の大中黒)を一本断てば外敵からの侵入をしばらく防ぐことができました。

新田の田畑から山へ駆け上ると断崖絶壁の上に、新田の墓がある寺があります。最近になってやっと小さい車一台が何とか通れる道になりましたが、年間の内およそ半分の時期は車でも上がれません(標高が高い上に断崖絶壁なので凍結すると通れません)し、今でも携帯電話が全く通じない場所です。

あのような場所にある寺は他に見たことがありません。当時の新田は有事の際には、この寺まで駆け上って、一族の死に場所として定めていました。

当家は石川県全域に広がった新田の本家だったので、村の徴税役になりましたが、徴税の対象は皆新田の分家であり一族です。

いざという時には皆で協力して戦い、この地で死のうと覚悟を決めた同じ一族であり、その一族に対して徴税は難しいことでした。逃げ延びた土地は元々人がいない痩せた土地でした。

当家は農地改良に励み、家督を継ぐはずであった六左衛門は分家一族の面倒を見て、残った財産で剱神社を建て、裸一貫で北海道に渡りました。北海道の新田家が当家です。(某自身は現在は主に山梨県におります)

新田の嫡流と定められたのは、徳川期であれば、かつての新田四天王の由良家であったし、明治維新後は岩松礼部家です。能登の新田は岩松礼部家から一つづれであると認定されています。ところが、かつて由良家が新田の嫡流と認められていた時期は由良家の一つづれと認定されていました。何故かは割愛します。

本質的な問題としては、新田思想を語り継ぐ者が多いに越したことはなく、いずれ来る時、良政の役に立つ事が出来ると良いでしょう。

日本を二分した一方の新田一門は、日本人であればどなたでもご先祖様と血縁がございます。新田は誰が名乗っても良いのです。