それがし(某)の生い立ち

某の生い立ちをご紹介します。時系列順に、幼少期の話から始めてしまうと、いきなり暗い話から始まってしまうので、後で紹介します。まずは先に面白い話から始めさせて下さい。

某は平成9年に18歳で大学の法学部へ入学しました。入学してしばらくは、「法律を学ぶことは日本の仕組みを学ぶこと」だと感じていました。

何故ならば、法律で一番難しい試験である司法試験は、日本で最も難しい試験です。それほど意味のある勉強なのだろうと感じていました。

某は、一人の生活者にとって、最も身近な法律である、民法を専攻として学びました。立法趣旨は「みんなのため」を謳い綺麗にお膳立てされています。肝心の中身は、ムダに難しくしているだけで、遠まわしに「自力救済は諦めろ」というメッセージを発しています。みんなのために自分1人のことは諦めさせるのです。

法律は法律を解釈しません。省庁の政策に基づいて政治家に作らせて司法に裁かせる法律を学び続けることに人生を使うなど、考えられないことです。法律も無駄な義務教育と大差ないことに気が付きました。

すぐに興味は次に移り、法務探偵業を始めました。他人の公簿類を勝手に引き出して調べて、探した相手の車や所持品などに機材を貼り付けて1週間くらい追えば、だいたいのことは調べることができました。

こうして某は、いち早く先に証拠を掴むことに特化しました。法律の後釈論よりも、最初の証拠と、最後は心理戦です。ほどほどに法律を知っておけば、心理戦を有利に進める権威になる。そんなところです。

夜はホストクラブを経営しました。現場では、大学生と暴走族が一緒に仕事をしました。みんな出地が違うので、個性や多様性を認めあうことは自然なことでした。

某の商売はいずれもトラブルが付き物の職種です。ただでさえ、しがらみを抱えた人たちが多い中で、競合他社は見渡す限りヤクザだらけ。

当時はまだヤクザが強い影響力を持っていた時代です。そこで、僕はヤクザ対策も始めました。暴力の統率は権力の根源です。大きなやりがいを感じました。

当時は、ヤクザからの脅しから苦しむ人はたくさんいました。某はヤクザからの脅しに苦しむ人の、いわゆる代理人として活躍しました。ところが、法律上は、代理人を務めることができるのは、当時まだ少なすぎた弁護士だけでした。ただでさえ頭数が少ない弁護士は、表も裏も知る人は少ない。ヤクザの行動原理など知るよしもありません。

某は、体裁上は「交渉事の付き添いサポート」としてヤクザ対策をしました。ヤクザは最初こそ怒鳴り声で威勢がいいのですが、30分くらい怒鳴り続けるのが限度です。証拠を取って駆け引きを始めれば、(無くても有るふりをすればオッケー)「先生、申し訳ありませんでした!許してください!」と、一瞬で態度が180度一変します。彼らも経済合理性で動いている一介の生活者なのです。

これがストーカー対応の場合は、証拠は必要なく、間に某を挟んで、相手の尊厳を保ちながら、言いたいことを言わせてハッキリ断れば終わります。

某の仕事はいずれも、人と人との関係性の中のサービス業です。仕事を通した人間関係の中で、依頼者や部下の母親と会話することもあります。

「うちの息子はカツアゲばかりしていました。てっきりヤクザになるとばかり思っていた息子が、毎日進んで仕事に行ってくれてうれしいです」とか、「うちの息子は、勇介さん(某の名前です)に感化されて、大学の法学部に進みたいと考えて勉強を始めたんです」など。

某は心の中で(法律の勉強を勧めたことも無ければ、大学への入学を勧めたことも無いな・・・。それ俺じゃないな。)とも思いましたが、それでも、たとえ他人の母親であっても、母親から感謝されることはうれしいものでした。

夜が明けるとホストクラブから大学へ通いました。毎日が飲酒運転です。売上金の札束をサイフに詰めて、クラブのお姉ちゃんや、暴走族を引き連れて、黒塗りの高級車(今では死滅種となったいわゆる族車。上に大きく跳ねあげた4本出しの竹ヤリマフラーのシーマ)で大学へ通いました。

ここまで話をすると、某がどれだけ変わっている人間なのか(悪い人なのか)という先入観が働くかもしれませんが、某は起訴も逮捕も勾留も民事での訴訟も1度もない。おまけにゴールド免許です。

そんな某にはトラウマがあります。某は大汗かきです。突然、汗が噴き出してきて、止まらなくなります。すぐにシャツが水浸しになって搾れるくらいになるので、周囲から驚かれます。「えっ!ビショビショじゃん!いったい、いつ風呂に入ってきたの?しかも、体拭いてないじゃん!バスタオルは無かったの」という感じです。

しかも、この大汗は、下に流れて、お股にまで影響が及びます。なんと、お玉のウラっ皮が、かゆくなってしまうのです!

想像してみましょう。人と一緒の時に、お玉が、我慢できない位にかゆくなってしまった場合、あなたならどうしますか。例えば、初対面の異性と一緒だったとします。あなたは、大汗をかきつつも、玉もかきたい。

あなたは、追い詰められた表情で、股間をムズムズさせながら、「誠に恐縮ですが、玉がかゆいです。あなたに玉をかかせる下心など全く無いので安心してください。少しだけ、自分で玉をかいてよろしいでしょうか。もちろん、玉は、服の上からかくので、ご安心ください。」などと、真顔で話を切り出そうものなら、聞いた本人は安心できないでしょう。逃げるか通報かの二択です。

この段階まで進んでしまったならば、あなたは後で何を言おうと、もう手遅れです。あなたは、正直に、紳士的に説明したつもりでも、あなたはただの変態紳士です。

この類のデリケートな問題は、例えば、花粉症の問題であれば、「私は花粉症です」の一言で済んでしまう話です。一般的に広く知られている話だからです。「私も花粉症なの。本当に辛いわよね。すごくよく分かるわ」で会話の華も咲くことでしょう。

ところが、大汗と玉の問題は、めったにいない多汗症の話から始まり(実際に目の前で大汗をかかないと信じてもらえない)、玉の裏側の構造の話までする必要があります。(玉は見せられない。)

仕方なく口頭で説明を試みるも、「原理的には、上から溢れ出た豊富なミネラルを含んだ汗が、構造上、窪んだお股、びんかんな、いわゆる、お玉まで下り、このようにイタズラをします。」そんな説明は誰も求めていません。大汗かきの問題も、玉問題も、そうそう他人とは共有できない問題なので、某にとっては大きなトラウマです。

玉ばかり構ってもいられません。某は事業を続けながら大学にも通い、ギリギリでしたが、なんとか4年で大学を卒業して法学士になりました。

もちろん、某の日常は危険な日々ばかりではありません。守らなきゃならないお客さんや部下などのトラブルというのは、突然に来ます。そういう場合に限って、緊急で一大事になるだけであって、だいたいの日々は平穏です。某自身の危機というのは、せいぜい玉問題くらいです。

某の趣味の一つがマーケティングです。その辺の会社や飲食店にふらっと入っては、「某ならこの店をこうやって再興させるな・・」と、即興でマーケティングコンサルタントを開始してしまいます。これは某の癖です。考えることが一番の趣味です。考えることは某に染みついた習慣です。

もちろん、ベースの知識がなければ考えられない分野もあります。例えば、日本中の様々な業種の最新の動向です。

それぞれの業界に従事する、たくさんの事業主が必死に考えながら進めている技術は、某が自分一人で考えても分からないことが多いのです。

某は事業に生きる事業主が好きです。事業主は正しさで生きるし、数に隠れずに、一人称で話しをすることができる貴重な大人たちだからです。

だからこそ、某は、某が想い及ばない発想をする事業主を尊敬しています。某は、産業界に従事する、いわゆる社長が好きです。

某は日経産業新聞という新聞だけは購読していました。様々な分野の産業界の進化や新商品をザッと見渡せたからです。

新聞で読むだけでは物足りなかったので、新商品が並ぶ展示場に直接通いました。東京ビッグサイトなどです。社運をかけて商品の説明をする熱気が大好きでした。

読書家の事業主と話しをすると「君は誰々が話していることと同じ話をしている。その人の本を読んだの?」と聞かれることがよくあります。

ところが、このころまでの僕は、本を全く読まない人でした。しかし、考える人にいくつかの共通点があるのは当たり前です。某の口癖は「某はその人のことは知りません。その人が某のマネをしたはずです」と言って笑い流しました。

某と同じ話をするらしい人は世間にいるらしいのですが、昔の人もいました。ニーチェという哲学者です。そういえば名前は聞いたことがあります。ところが、本を読まない某にとって「哲学」という言葉の意味も分かりません。

ニーチェの本を渡されました。よほど暇だったのか、本を読まない某が、うっかり読んでしまいました。

ニーチェの主張を要約すると「かつてのキリスト教の神は、姿を変えてこれからも生き続けるよ。そのうちみんバカになって、バカでも分かりやすい2項対立の図式の中で多数決や民主主義で決定されるようになるけど、そうなった時にはおまえら、それが正しいとか思い込むようになっているよ。もう、手のほどこしようもない大バカになっているよ。増幅した大多数のバカに乗っ取られた大バカ社会が来る。それでも俺は、おまえら人間のことを、本当は愛している。おまえら人間にしか、できないことがある。だから、人間への希望は捨てない。必ず期待し続ける。ほいじゃ俺は逝くわ。ほな。」みたいな趣旨です。

昔に生きた異国の哲学者が、今の日本人を正しく予言していました。僕は、全ての学問を包括する学問である哲学の深さを知りました。

某は今まで何を学んできたのでしょうか。しょうもないことばかりです。世界の中で日本だけ、それも、現代のみにしか通じない、小手先のマーケティングやらビジネス書などの類は、新しいくせにすぐに古くなる。本当にどっちでもいい不要な物事だと感じました。

現代の中で特にどっちでもいい情報は、受動的に入ってくる情報です。テレビを付ければ政治家や芸能人の些細なミスを上げ足とりのように批判する。どっちでもいい些細な漢字の読み間違い1つが取り上げられて大スクープになる現代日本は狂ってないか。そんなこと、どっちでもいいことじゃないか。(僕の玉問題よりどっちでもいいことじゃないか)

世間は「だって、良いことか悪いことかといったら、どちらかと言うと悪いことだから、悪だろう。裁かれて当たり前だ」と断ずる。話を分かりやすく、なるべく細分化して、一つ一つを分けて、善悪のどちらかに断ずる。

細かく細分化すればするほど、どこかで必ず悪だと断ずることができる。つまり、誰でも悪に仕立て上げられる。そこだけにフォーカスした情報を信じる。木を見て森を見ずだ。

「良いか悪いか」「白か黒か」じゃなくて、「どっちでもいいこと」なんだ。そんなどっちでもいいことよりも、僕たちが、なぜ、「良いか悪いか」や「白か黒か」の二項対立で物事を断片化、簡略化して物事を分別するようになったのか。その原因は何なのかを考える方が重要だ。だから、「良いか悪いか」「白か黒か」は原因と比べると、些細なことなので、どっちでもいい。

それでも現代日本人はこう考える。「時代や文明は少しずつ進化してきたのだろうから、自分達が生きる現代の知識は、過去の知識を網羅しているはずだ」そして、「過去の多くの時代にはなかったであろう義務教育を済ませているので、一通りのことを学んできたはずだ」と、思い込んでいられる。

だから、今を生きる他のみんなと意見が同じである限りにおいては、自分自身もそれなりに賢いつもりでいられます。だから、みんなに合わせる。

こうして、ただでさえ「良いか悪いか」「白か黒か」の二択しかない選択肢が、みんなに支持された一つに絞られる。選択肢など、初めからない。選んでもいない。考えてもいない。あるのは自分の選択を正当化するための後の解釈だけだ。

ニーチェが生きた次の世紀の哲学3大巨人の一人とされているフロイトの書を読みました。フロイトは、睡眠時の夢を研究した。人間は意識して使える脳はほんのわずかで、大部分は、無意識に秘められている。夢は無意識から比喩や隠喩を使って、時には自分では知るよしもない未来の出来事を予知することができる。

つい近代の研究結果だと思われて夢の分析が、実は、大部分は、すでに、紀元後まもなくの昔に完成されていたのでした。

昔の人々は、教育や社会のインフラが未整備だったのでもちろん不便ではあったが、国家や民族の生死をかけて、真剣に考え尽くしていた。そして、自分に必要な物事を自分で選んで学んでいた。現代人とは真逆だ。

古代のある国家では、国民の義務が考えることだった。労働よりも、考えること、哲学することこそが最も重要だった。国民の大部分が知識人であったからこそ、この国家には民主主義が健全に機能した。

現代人は、本当に必要なことを、学んでいないどころか、そもそも、本当に必要なことが何なのかさえ、知らない。知らないだけならまだマシだが、知らないことすら知らない(「自分は知らない」という事実を認識できない)

なぜならば、もうすでに、知りたくもなくなってしまったからだ。なぜならば、知ってしまえば、これまでの自分の人生を総批判しなければいけなくなる。

みんなに合わせていれば、みんなの中の数に隠れてさえいれば、自分の口から、少なくても、数頼みの言葉は発することができる。テレビで突つかれる政治家の文句を言い、寝て起きて、何も考えずに、明日もまた文句を言える。

数にかくれて、特定の個人への断罪を繰り返し、その業に無意識で連座する。こうして、自主的に、自分自身をも黙殺させるようになった。自分1人の口から、一人称の意見など言いたくない。数に従っていたい。数に祈り、数にすがる。これが現代日本病だ。

祈りすがる人間は、学ぶ人間に勝てない。学ぶ人間は、考える人間に勝てない。考える人間は、考えた末の自分一人の行動を信じる人間に勝てない。数に祈りすがる前者の人間が現代人。自分一人の行動を信じる後者の人間が昔の人間だ。

某自身も、しょせんは、現代の偏狭な情報の中だけで生きていたことに気が付きました。もう30歳も目前にして、今まで古い哲学書を読まなかったことを後悔しました。某は知識人になることを決めました。いずれ、本も書いてみたいと考えるようになりました。

某が適当に世間受けしそうな本を書くとすると、「田舎でも絶対成功する!ホストクラブ運営マニュアル」「勝てる裁判の証拠集め!法務探偵業の裏舞台」「怒鳴り声のこわいお兄さんを一瞬で「先生ごめんなさい!もうしません!」と悶絶させるマル秘テクニック」「100戦全敗。玉との対決。もて遊ばれたおいなりさん。そして子羊の毛は剃られた」

などなど、たくさん書けそうな気もするのですが、そんな小手先の目的のために勉強することはできません。夢が小さすぎて、モチベーションが続きません。

某は哲学を学ぶことに決めました。哲学は1対1000でも1対1の一騎打ち。一騎当千だ。自分の哲学を世に問いたい。闘わせたい。某は、日本の人神である新田義貞公、ご先祖様のことを強く意識するようになりました。普段は子育てに全く干渉しない父(新田)がたまにポツリポツリと話す新田思想の話が大好きでした。どの話も他では知れない話でした。

某の無意識は僕の自己実現を目指して何かを生み出そうと強烈に発信しています。何かを創ろうとしているのは確かなのですが、それが何なのかを文字に出来ない。言葉に出来ませんでした。

次第に、周りの人間関係を断ち切るようになりました。仮に会っても説明できる言葉すらまだ分からないし、仮に説明できても今はまだムダです。某は、身の周りの、あらゆる物事が、どっちでもいいし、全て面倒くさく感じるようになってしまいました。関係者には随分と迷惑をかけてしまいました。

今の環境をブチ壊してでも自分を追い込まないと、先に進まない気がしました。説明すら放棄して引きこもって、酒を飲み、難しい昔の本ばかり読むようになりました。数の中に埋もれていては、可能性は根吹かないのです。幸いにして、孤独には慣れています。某は孤独な子供時代を過ごしました。孤独の中に、某にしか見えない現代の日本社会と日本人の姿がありました。

某は、昭和54年に産まれました。母が、某に求める理想の子供像とは、「私(母親)の話をよく聞いて、素直に言う事に従う良い子で、かつ、みんなと仲良く出来る、謙虚で、控えめな良い子」です。現代では、よくある、一般的な教育方針でしょう。

母親はとにかく心配性でした。世間体を気にする人で、某に「失敗させまい」と尽くしました。例えば、「朱に交われば赤くなる」と言って、交友関係を制限して、身に付ける衣服も制限しました。母は、僕の言動の一つ一つが気になって仕方がありませんでした。

突然に怒りだすヒステリーの傾向もありました。子供の頃の某の口癖は「何で?」でしたが、その都度、母親から「あんたは言うことを素直に聞かないダメな子」だと言われ続けて育ちました。

母親と遊んだことはありません。代わりと言っては何ですが、よく足元の野菜室に閉じ込められました。

某の名前である「勇介」を名付けた意味を母親に聞くところ、意味は、「例え一人でも、一人の人を助けることができる勇気のある男になりなさい」ということでした。

某は「みんな=より多くの数」に合わせたら良いのか「一人」に合わせたら良いのか分かりませんでした。この矛盾は、子供の某を大いに悩ませました。

某は「みんな」でも「一人」でも、どちらに合わせようが、母親から怒られることには変わりはありませんでした。体が大きくなると野菜室に閉じ込められることはなくなりましたが、代わりに、母親は、某を前に「情けない」と、1時間以上でも、時間がある限りえんえんと泣き続けます。

そもそも、何が、親に対して迷惑に当たる行為なのか、親から教えられることはありませんでした。怒られる理由を聞くことはタブーでした。

母親は、自分の主張を言語にできません。キレるだけです。ひたすらに「自分の感情と同化すること」を僕に求めました。母親の感情は母親だけの感情です。某には理解不能です。

某が生き続ける以上、親へ迷惑をかけ続けるのであれば、死ぬしかないと考えて、死ぬ方法を考えながら過ごしました。某には「考える」か「死」かの二択でした。死ぬ以外の方法を考えるためには、いずれにしても考えるしかありません。

人間、死を考えると熟考するものです。熟考の末、そもそも、なぜ、親へ迷惑をかけないために死ななければいけないのかを考えた結果、某は、死ぬ理由など無いことに気が付きました。

某は、産んでもらうことを頼んでいません。勝手に産んで、勝手に苦しむのは母親の勝手として諦めました。親を諦めることは、子供の某にとっては、大変な覚悟でした。

そうして、某が生きる方法を考えた時に、生きるのであればこの環境のままでは生きられないことに気が付きました。もし、某が生きるのであれば、それは一人で生きるということです。一人で生きるためには、自分に自信が必要です。

ところが、母親の教育方針により、某が某自身に対して自信を持つことは許されませんでした。某は、母親から、常に謙虚で、従順であることを求められました。「身分相応にしなさい」と「アフリカの子供と比べればあんたは幸せ」が母の口癖でした。

母親の言う事に従って、今のまま身分相応にすると、生きていけないから悩んでいるのです。

某は、自分に自信を付けるために、一人で生きるために、そのためには、親の世話にならないことが重要だと考えて、家出を繰り返しました。

家出先は、廃墟になっていた気味の悪い外科病院の跡地でした。今にもオバケが出てきそうな廃墟です。近所の子供たちによって、実際に、肝試しに使われていた気味の悪い廃墟です。

某は、まだまだ、オバケが怖い年頃でしたがで、「某も早く人間やめてオバケになれるもんじゃ、今すぐでもなってみたいもんだ」と考えている事実に気が付いてからは、オバケも気にならなくなりました。ひょっとすると、オバケは某の真の理解者で、友達かもしれません。

親の世話にならないとは言っても食べ物も少しは必要です。家からこっそりご飯やオカズを盗みました。親から世話を受けている負い目を減らすために、安いものを盗みました。

当時の某は、家に大量に置いてあった米と鮭は安いどころか、タダだろうと感じていました。そこで、余ったお冷ごはんと冷鮭を冷蔵庫から持ちだしました。唐揚げなどの揚げ物も2個盗んでもバレないと考えてよく盗みました。

わずかなオカズに、醤油をビチョビチョに浸して、こみ上げる涙と一緒に冷飯と飲み込みました。悲しさと、同時に、一人で生きる覚悟を決めた自分自身への、嬉しさでした。僕は一人で育つことを決心しました。

他人の視線から感じる恥の感情は、無くなりました。よくよく考えてみると、実際に、どうでもいいことです。

某は、家出先として、この外科病院の廃墟の他にも、近所のパチンコ店にも逃げ込みました。家出先が何処であれ、お金は必要です。お金さえあれば、一人でも生きていけると考えていました。

一人で生きようとした時に、そのためのお金をどう増やすかを考えました。某の同級生である普通の子供たちは、お金を銀行に預けて使わなければ、少しずつですが、お金は増えます。

ところが、某は(家出のために)お金を使いながら、同時に(自立のために)お金をなるべく早く増やさなければいけません。そのための方法は、もちろん、同級生の誰に聞いたって解かることではありません。そんなこと、考えたこともない子供たちです。学校の先生やサラリーマンに聞いたって解らない話だから当然です。

そこで、某は一人で考えました。どうすれば、手持ちの少ないお金を使いながら、同時に、効率的に増やせるか考えました。

子供の某にとって、手っとり早いお金の増やし方は、家出先のパチンコ店で増やすことでした。当時は子供でも自由に出入りできました。パチンコ、スロット、ゲームセンター、カラオケ、ビリヤードなどが入ったお店です。

当時のパチンコの羽根モノ台は少額なら必ず勝つ方法がありました。競馬のゲームや、スロットゲームも。当時の賭場は、使いたい人は湯水のようにお金を使う反面、研究次第では、地道にコツコツ増やすこともできました。

当時はまだバブル経済の名残があったからでしょう。お金が溢れていました。パチンコやスロットのプロと言われる職業が実在していた時代です。

某は集めた数十万枚のコインを転売して利ザヤで稼ぐようになりました。一人ですると効率が悪いので役割分担をするために人を使うようになりました。

某は他の子供と比べると随分とお金持ちでした。サイフには5万円くらい入っていました。このお金は僕に自信を与えてくれました。いざとなれば、気軽に家出できました。

中学時代も終わりごろにはヒゲと胸毛が生えそろっていました。他の誰にも生えていなかったので「こんな俺に生えてきてくれてありがとう」と思い、毛を前面に出して生きることを決意しました。胸元を大きく開けた黒い服を好むようになりました。

ヒゲが流行ったころには「どうしたら生えるのか?」と、問われ、ヒゲが流行らないころは「どうして剃らないのか?」と、問われました。

問う彼らは、みんな同じ青いジーパンをはいていました。僕から見ると、右の彼のジーパンと、左の彼のジーパンは、どう見ても同じ物に見えるのですが、左の方は値段が5倍も高いらしい。何でも、世間では、たった一種類のジーパンやスニーカーをみんなで欲しがって、襲撃事件まで起こっているらしい。

世間なんてそんなもんだという事実はずっと前から分かっていました。時が経つにつれ世間と僕がどんどん離れていきます。子供の僕にとっては大変に寂しいことでしたが、「仕方がない」ということを自分に言い聞かせて、一人で育ちました。

親を否定してしまうと、世間なんてものは本当にどっちでもよくなってしまいます。社会的には、世間の中の親ですが、子供にとっては親あっての世間です。本当は、たった1人の親こそが大切で、たった1人の親あってこその、より多くの数、世間です。

某は世間を冷静に眺めていました。世間の教育の根本は、愚衆を増やすための教育です。一例を示せば、若い貴重な時間を10年学んでも話せない英語を学ばせ、プロになる以外つぶしの効かない同じスポーツを、毎日続けることを推奨する。社会に出ても、同じスポーツを観戦させる。視聴者である一人の人の人生にとって、ほとんど何の影響も及ぼさないのに。

つまり、毎日をなるべく単調に、でも忙しくさせて、なるべく何も考えないようにさせます。自分で考えて、自分で決められないようにする。考えることを数に頼らせて、全体主義にさせる。だから、全体からはみ出す物を差別する差別主義になる。

全体主義になれば、ジーパンが流行ればみんなで欲しがります。ヒゲが流行る場合は伸ばして、流行らない場合には剃ることが基本です。だから、自分が欲しいものじゃなく他人が欲しがるものを欲しがるようになる。

同じように、自分が欲しいものを他人も欲しがっていると感じる。人と自分は大差ないと感じて安心できる。そんな社会は、考える必要のない楽な社会なのでしょう。みんなと言う数の中の1人の自分と感じられる。

しかし、同時に、みんなと言う数に合わせられている1人の自分がいる。「そんなはずはない」と自分に言い聞かせる。こうして、自分自身さえも見て見ぬふりで素通りする。

数への忠誠はより一層強くなる。いまさら数には逆らえない。いっそこのまま気が付かないふりをして一生をやり過ごそう。こうして数に塗れた、同じような人間が量産される。

ついでに、学校側からの評価や偏差値による人間の序列は当たり前のこととして素直に納得する従順な人間に育ってくれれば、日本の権威は保持されて、教育の役割は完了です。これで民主主義を絶対善に仕立て上げさえすれば、日本の国体は未来永劫変わることなく安泰なのでしょう。

相変わらず数崇拝の母は学校側からの評価しか見ません。僕の評価表を見ては僕の前で1時間もえんえんと泣き続けて同情を買おうとする母親を前にして、掛ける言葉はありません。この頃の僕にはまだ、説明に必要な言語がありませんでした。「数と対決する」言語を。

高校は偏差値底辺の私立の職業系ミッション高校に進みました。高校でも、自分の事業の方がよっぽど大切でしたし、相変わらず、学校の勉強に価値を見いだせません。

ところが、卒業も間近になって、父親から新設された私立大学のパンフレットを渡されました。趣旨としては「大学行けば?ここじゃ入れてやれるよ」とのことでした。事業主である父親と、この大学と、何らかのコネがあるのだろうと感じました。

その大学は美術や芸術を勉強する学校。そういえば、僕の両親はいわゆる芸術家です。僕の親は美術大学を出ていて会社を経営する事業主です。

母親は教育ママで昔からインテリ思考がとても強い。子育てに関して父親は母親の要望を聞くだけでした。その母親から「大学へ行かせたい」という強い意思を感じました。ここで僕は大学に進学することを考え始めました。

ところが、某としては、両親が仲介する大学を卒業したところで、両親の会社を継ぐつもりは全くありません。僕の生活が、また昔に戻ってしまいます。

そこで、他の何でも良かったのですが、どうせなら。と、考えて、大学では一番難しいとされる学部である、法学部法律学科への進学を考える様になりました。

試しに、一番偏差値の低い大学の入試に合わせて模擬試験を受けてみました。(※上武大学。キャッチフレーズは「上武(じょうぶ)だったらー!だいじょうぶー!!」)模擬試験の結果は最低の20代。評価は最低のEランク。コメントは「志望校を変えてください」の有り難く不要な一言のみ。ぜんぜん大丈夫じゃなかったし、この大学よりも下の大学が無いので変えようがない。

担当の先生から「短大もムリだ。現実を見なさい。」と、有り難たく不要なコメントも頂きました。この先生は随分と偏差値の高い大学を卒業されています。ご立派ですね。

自分自身の自信の無さを押し付けてくる世間の人たちは、本当に面倒くさい。それでも彼らは自分のことを「全うなことを話す善人」だと感じて信じきっています。

これはもう、完全に宗教です。それなのに、誰もが自分は宗教を信じていないと信じている。それは間違いです。あなたたちは「数」崇拝教徒です。

物理的で相対的な数に従う限りは正しいと思い込める。であれば、同時に、その人である必要がない。そんな意見なら必要ない。

彼ら大人たちは、いっそのこと、人間をやめて、家畜になって、切り身にしてkg当たりいくらで値決めすればいいんです。「僕はkg当たり98円ブー!」「えー!僕18円ブー!ずるいブー!」「カンカンのプンプンぶー!!」みたいな。

心底では妬み合って僻み合ったって、時間さえ経てばそのうちに慣れて、スッポリその場に収まります。数えやすく自然数の言語に置き換えてあげれば。しかし、某は素数です。たった1つと自分自身でしか割り切れない。僕に限らず、本来人間とはみんな素数のはずです。

もちろん、今のままでは、コネなしでは、どこの大学にも入れません。しかし、受験まであと3か月もあります。某は大学受験の勉強に取り掛かりました。今から全ての科目の勉強を始めると間に合わないので、2科目だけに集中しました。

結果、センター試験で、200点満点中の192点。この2科目のみで入学できる大学であれば、どこでも合格することが決まりました。こうして、大学への入学は決まりました。

「偶然だ」「まぐれだ」とも言われましたが、偶然でも、まぐれでもありません。僕は200点満点が取れると思っていたので、不満だったくらいです。

その気になれば、東京大学にだって行けたとも思っています。絶対に入学したいと心から考えていれば、僕に限らず、誰だって簡単に入学できるはずです。

さて、大学入学は決定したのですが、高校の卒業が出来ません。同級生はみんな卒業式に卒業したのですが、僕
は高校卒業のための勉強は完全に無視して、大学入学の勉強のためだけに時間を使いました。

単位が足りなくても、出席日数が足りなくても、いずれ進級や卒業させてくれる所が私立高校の良い所です。期限ギリギリになると、とりあえず卒業させてくれます。

僕は卒業式に限らず、みんなと一緒に進級したこともありません。それでいいんです。どっちでもいいことだからです。みんなに合わせることは目的ではありません。

もし仮に、僕がみんなに合わせる人間であれば、大学入学はできなかったどころか、そもそも大学入学を考えることすらしなかったでしょうし、それどころか、だいたいみんなと同じ人生を歩んだことでしょう。みんなと同じであることに、疑問を感じることすら無かったでしょう。

後に、担当の先生と二人っきりで地下室の一室で卒業証書を渡されました。有難い配慮です。こうして、一人だけで高校を卒業して、大学に入学しました。

以上の幼少期があって、先にご紹介した通り、大学で法律を学びながら、法務探偵とホストクラブを経営したり、暴力団対策をしたりと、ユニークな学生時代を過ごしました。子供のころには5万円しか入ってなかったサイフには、50万円の札束が入っていました。

お金持ちの学生時代を過ごしたころには、子供の頃にあれほど固執していたお金への執着は消えて無くなりました。本当は、昔から興味は無かったのです。

子供のころの僕は、ただただ、一人でも生きることが出来るようになりたかった。そのためにお金が欲しかった。そのお金を手に入れることが出来るようになってからは、母が名付けた名前の通り生きようと感じていました。

僕の名は、「新しい土地(田)へ勇気を介入させる」と書きます。勇介の語源は「例え一人でも、一人の人を助けることができる勇気のある男になりなさい」です。

そうでなければ暴力などに足を突っ込んだりしません。僕を産み、希望をもって勇介と名付けた母。数にまみれた母なりの、精一杯の勇気だったと思うからです。

文章中に登場した母と先生は現代日本人の極端な一例ですが、僕から見た現代日本人は、母や先生と大差ありません。数に隠れ、数に任せ、数で1人を断罪する。その罪に無意識で連座するために、自分自身をも黙殺する。ますます一人称の自分の意見が言えなくなってしまう。

某への「勇介」の命名は、母の一人称です。某は、一人称の母親の勇気は応援します。

しかし、母が隠れた数を応援することはしません。その応援は「同情」といいます。同じように数に隠れる自分自身への同情です。傷の舐め合いです。そんなことは、数に隠れる人間同士のみですべきです。

某にはその気持は分かりません。人間が分かりあえないことは当然です。それでも無理に分かり合わせようとすることは、応援でもなく、同情でもなく、ただの強要です。僕から見た社会は、実際に、強要し合っています。

某は数に逆らって生きることができる人間なのだから、それを全うすべきです。人間には役割分担が必要です。それこそが、巡って数のためにもなるのです。それこそが、真のみんなのために成り得る可能性が残されています。

大学を卒業して、遠い異国で生きた昔の哲学者であるニーチェの哲学書と出会いました。某が漠然と感じていた、母への不満、日本人への不満、社会への不満、その原因を、言語にして、予言していました。ニーチェは、親の人生への批判を通して、現代人へ壮大な警告を残しました。

ニーチェの生まれ育った境遇が、某の境遇と重なりました。ニーチェは僕そのものだと感じました。某は、これほどまでに、自分と意見が一致している人を他に知りません。子供のころから「僕は一人だ」と感じていたもう一人の某がそこにいました。

ニーチェをきっかけとして、哲学に夢中になりました。僕は、身の周りの、あらゆる物事が、どっちでもいいし、全て面倒くさく感じるようになってしまいました。

哲学書を読み漁りながら、漠然と「数との対決」を目標として意識していました。この頃の某には、まだ、それが何なのか、言葉に出来きませんでした。それでも、某が、人生を懸けて対決するは、まさしく「数」だと。それだけはハッキリと分かっていました。

数は偉大です。対決する相手として申し分がない。数と対決するために、哲学書を読みふける最中に、東日本大震災が起こります。

次いで、数にすがる現代日本人が招いた人災、東日本大震災での僕の体験を通して、現代の日本社会と日本人の本質的な問題を抉り出します。

哲学書の読書のために、前向きに引きこもっていたある日、突然に、東北の大津波と、原発事故が起こりました。テレビでは政治家が「直ちに被害は無い」旨と「ヨウ素があるから大丈夫」旨を伝えていました。大変なことが起きたのかもしれません。某は分からないなりにも、専門書を取り寄せて調べました。

人工放射性核種の内部被曝が及ぼす人体への影響については、チェルノブイリの推移から学ぶしかありません。かといって、全てを真に受けることはできません。例えば、表土一つとっても、乾いた砂地のチェルノブイリと、湿った粘土の日本では環境もずいぶん違うので推測は難しい。

現代人は土の状態などの放射能に直接関わる問題以外にも、遺伝子組み換え食品や、まだよく分かっていない他の要因も沢山ある。私たちは経済合理性の実験材料なのかもしれない。どこからどこまでが放射能の問題なのか、もしくは、いくつかの条件が重なって発生する複合的な問題なのか。今は正確に知るよしはない。

某は大なり小なり人体への影響は中長期的に出てくると断定しました。出てきてからでは遅いからです。某はますます引きこもって、自宅に来る仕事仲間と友人の食事を作り、みんなの食事の放射能対策を担当しました。

某はもともと料理が好きだ。なぜなら、母は料理の時だけはいつも楽しそうにしていた。楽しんで作っていたので、当然、料理上手だ。その辺は、僕は恵まれていた。幸いなことに、汚染の疑いのある材料の産地も大体分かる。

某の住む場所は汚染がなかったので、原発事故の被害者が避難してきました。いろいろな話を聞きました。「逃げろ!」と言われても給油制限があって逃げられなかったこと。どっちでもいい下らない法律の乗車人数の制限で、孫を逃がすために車から降りて去っていったおじいちゃんの話。などなど。

物資不足と集団生活による精神的なストレスが避難者を苦しめました。中でも、とりわけて、差別についてです。当時は「放射能は移る」などの風評被害が実際にありました。某は移らないことを知っていたので、仲間を連れて、一緒に生活している風景の動画を撮影してインターネットへアップしました。

あれだけ「ヨウ素があるから大丈夫」と、何も知らない政治家に連呼させておいて、避難者は誰1人としてヨウ素は配られておらず、誰1人として飲んでいませんでした。

おかしい。

某はヨウ素剤を探しましたが当時はヨウ素のみの錠剤というものは薬局になかったので、ヨウ素入りのミネラル剤を避難者の子供たちに配りました。

テレビでは、大津波によって自分以外の家族7人の全員が殺されて、家族でたった1人生き延びた小学生の少女のドキュメンタリーが放送していました。

テレビ番組の最後の少女の言葉は「なるべく人に頼らずに、1人で頑張っていきたい」という趣旨で締めくくられていました。

おかしい。

その言葉は本当に少女の言葉でしょうか。某はそうは思いませんでした。

少女のドキュメンタリーの終了後に、アナウンサーが「少女も頑張っている。みんなも頑張りましょう。」という趣旨でまとめていました。要は「みんな、お互いに、自己責任ね。」という趣旨です。

テレビに限らず、「みんなお互いに『大丈夫だ』と言い合おう!」「みんなのために!」という風潮です。

「みんな」「みんな」「みんな」・・・。くっくっくっ。おまえたちは全員、本当に、クズだ。

世間では、ブラック企業1つ、経営者1人吊るし上げる。なーんにも知らないくせに。みんなは1人のことを知らないくせに。ついでに自分のことも知らないくせに。ブラック国家を作ったブラック現代日本人どもめが。クズども。俺は子供のころから、正義顔したおまえたちの正体が、本当はクズどもだって知っていた。

某はかわいがられて育っていません。感情は、どこか、放っておくようにしました。それでも、自然に涙が出てきて止まらなくなる。

某はどう発すればよいか。世間では当たり前のように正しいと勘違いされている“多数決のウソ”と“世の為人の為のウソ”つまり、数のウソをどう問うべきか。

某は突然に泣き出してしまうようになりました。子供のころ、家出先で、盗んだ冷飯を飲み込んで流した涙とは違う感情の涙です。

最初に出た涙は「怒り」の涙。次からは「情けない」という感情の涙でした。某自身も、某自身を情けないと感じていました。

そういえば、子供時代、母も某に対して「情けない」とよく泣いていました。母は某を諦めていたわけではなかったのです。母は自分自身に向けて「情けない」と泣いていたのです。

母を否定し、世間のことなんてどっちでもよかったはずなのに。諦めていたのに。諦められない。諦めていれば、「情けない」と感じて泣く事はないはずです。

某は、母を愛することを切望していたことに気がつきました。それは、今を生きる日本人を愛することです。今を生きる日本人に、悪意があるでしょうか。本当は、悪意など、無いはずです。だれ一人としてクズじゃない。

ほとんどの人は善意で動いている。この善意が、なぜ捻じ曲げられてしまっているのか。母も善意だった。某だって本当は善意だ。みんな善意のはずなんだ。その善意によって、良くなるはずなのに悪くなるのはなぜか。

某は、みんなの善意が悪用されていると感じました。みんなの善意がより多くの数となって集まれば集まるほど、一瞬で悪意にすり替わってしまう。そして、誰も気が付かない。

テレビのアナウンサーも善意で話したはずです。アナウンサーが言ったことを真に受けるその辺の人も、善意で、良かれと思って叫んでいるのです。

報道の中で働く人間が「ウソの情報を流して国民を苦しめてやろう」と考えて働けるだろうか。某はそうは思わない。様々な壁に当たりながらも、可能な範囲で、できる範囲で有益な情報を報道したいと努めているはずです。

大学の御用学者だって、普段は、自分自身が好きな学問や研究を通して、人に役立つ研究結果を出したくて研究していて当たり前だと思います。ですから、学者が発信する情報の内の大部分は、特定の誰かにとっては有益な情報であるはずです。

報道関係者や学者が発信する情報は、その情報が本当の情報なのか嘘の情報なのかを見極める知恵が私たち一人一人に必要です。全てを真に受けるのではなくて、有益な部分のみを学べば良い。

彼ら報道や学者は仕組みの中で生活しているのだから限界があって当然です。ほとんどの現代日本人だって、多くのしがらみや仕組みの中で生きているはずです。仮にメディアの人と御用学者の人と普通の現代人をシャッフルして入れ替えても、何も変えられない。彼らもまた、私たち現代日本人の一部だ。

事故当初、テレビで「ヨウ素があるから大丈夫」と言わされていた大臣は、原発のことなどほとんど何も知らなかったはずです。任期も短く、千差万別で複雑な科学技術の話など十分に理解することなど不可能です。彼もまた、私たち現代日本人の一部だ。

日本は縦割りで業務を分けて、各省庁の官僚が政策という名の命令を出します。官僚は省庁に入ると省益を優先するようになります。そういう仕組みにできています。ところが、この仕組みさえも、彼ら官僚が作った仕組みではありません。予め定められた仕組みです。大学を卒業して世間を知らずにそのまま省庁に入れば、その仕組みに則った考え方しかできなくなるのは当たり前のことです。彼らもまた、私たち現代日本人の一部だ。

どういう人が官僚になるのか。僕の友人に、村の公務員がいます。僕と年齢は随分と離れていて大先輩だが、仲良くさせていただいている。子煩悩で良心の塊のような人だ。この人の子供は地域で1番の進学校に進んだ。将来の夢は父親と同じ村の公務員になることだ。

往々にして、夫婦円満な家庭で育った子供は、放っておいても自然に勉強します。勉強の評価で親から評価されないのは分かっているので満たされている。そしてもちろん、勉強の評価をも喜んでくれるからだ。だから、外界へ興味が移るのは遅い。子供の欲求のほとんどは家庭内のみで満たされる。

彼の子供はこのままだと東京大学へも入学できそうだ。仮に東京大学を卒業したとすると、彼は村の公務員にはなれない。なれるのだが、諦めるだろう。

東京大学を出ればキャリアになって中央省庁の官僚になれる。高校卒業でもなれる村の公務員とは、待遇も出世の速度も全く違う。現実を直視するころには、社会的なヒエラルキーを無視できない。

こうして中央省庁に行くケースも多いだろう。こういう人間らが、「国をぶっ壊してやろう」と思って国務に従事するだろうか。某は思わない。

ただし、官僚になる人は育った環境からして、往々にして、素直すぎるだろう。だからそこ慣例通りに仕事を進める。見渡す限り同じ大学の先輩後輩。さらに、省庁のトップは2年以内に代わる。これでは何も変えようがない。

某が以前に対談したことのある官僚で、自分の省庁である文部科学省を批判したために退職勧告を受けて日本中から批判された官僚がいた。その後、彼は官僚を辞めた。

官僚に限らず、人は誰でも、それぞれの土俵へ上がる以上、その土俵の仕組みで相撲を取らざるをえない。自分で自らの土俵の枠を壊す人は、まず少ないだろう。

現代日本人は、世間、金、権力、常識、慣習、、、より多くの数から名指しされて批判されたらお終いだと感じている。彼らには家族もあるだろう。だから、家族を放り出してでも、数に逆らって「こうしろ」とは言わない。誰か1人を名指しして数に逆らうことを強要すべきでない。名指ししてはいけない。

もちろん、数に逆らわぬ以上、現状の追認しかできない。だから何も変えられない。では、結局、日本はずっと今のままなのか。何も変わらないのか。そもそも、私たちを縛り付けているらしい、数とは何だ。

数に合わせることは、一見すると楽に感じるかもしれない。ところが、数に合わせることは、僕たちの質を下げる。僕たちがあれだけ依存を続けてきた数は、こっそりと、確実に、私たちを裏切ってきた。

ここで言う「私たち」とは、グローバル企業の経営者一族でもなく、財界に属する資本家でもなく、不動産の賃貸で潤う地主の資産家でもなく、中央省庁の官僚でもなく、地方公務員などの役人でもなく、国家会計の大部分を占める特別会計で潤う天下り先や特殊公益中間法人などの準役人的なセクションでもない、いわゆる普通の人たちだ。

某も含めた、この普通の人たちが、全体の9割を占める。この9割の活躍の場所は、業種こそ違うけれど、いずれも「産業界」に含まれる。

この9割の産業界を裏切ってきた数の一つは、お金という数だ。この数は、現代の身分制度を作った。一度身分を落とせば、もう身分を上げることができない。夢のない、可能性のない階級社会を固定化させてしまった。

夢のない、可能性のない階級社会は、私たちの個性は求めていない。あなたを数に従わせ、あなた自身をも、数に変えたい。それも、なるべく低い数字に変えたい。

あなたの時間を、例えば1時間を、時給1,000円という数に変えるだろう。安い労働力の下支えがたくさんなければ、既得権者たちは、数に基づいた相対的な優位が保てない。

最終的には、産業界に従事する僕たちを0円にしたい。タダだ。徴兵制ならぬ、徴ボランティア、徴介護なども今後は現実味を帯びてくるだろう。現在でも「みんな(数)のため」であれば、=「良い事」なのだから、「あなたもすべきだ」という暗黙の強要がある。

あなたを限界まで低い数字に変えても、まだ足りない。日本の財源はひっ迫している。もっともっと下の階層で、安く働く人を増やしたい。次のターゲットは女性だ。産まず、休まず、考えず、働いてほしい。

表では少子化対策を謳いながら(原因は「出会いの場がないから」等と単純化して)女性の社会進出を進めている。現に、昔から分かりきっていた少子高齢化は全く改善されていない。今後もこの調子で進んでいくのは明白だ。

これらの現実は、本当に「みんなのため=より多くの数のため」だろうか。某はそうは思わない。過去を思い出してみよう。

某は昭和54年生まれだ。子供時代がバブル経済。日銀はお金の蛇口を大きく広げて、株と土地の金融市場を意図的に肥大化させた。米銀とファンドの仕掛けに合わせて金融バブルを崩壊させた。

バブルの崩壊が、虚業の金融市場の崩壊だけなら良かった。ところが、超低金利にして、銀行を通した産業界への融資を止めて、お金を国債に向かわせた。財政出動もまばらで、かくして、実体経済は壊滅して、以来、GDPは上がらず、長いデフレ時代に突入させた。

デフレ政策の悪影響は今を生きる僕たちのみに留まらない。公務員給与の借金(国債)の返済を、次世代、そして、これから産まれる日本人へ押しつけて、借金は世界の近代国家史上最大の金額に膨れ上がった。日本の円という、お金という数は、日本の未来の子供たちさえ裏切ることを決めた。

日本の未来の子供たちと対面せずに、直視せずに、裏切ることを勝手に決めた。以上の話は、数の中のお金だけの話に留まらない。手当たり次第、なるべく多くの種類の数に隠れる一人の人間の怖さ。数が集まることの怖さ。

数に任せた業に自分自身をも連座させる。巡った数の業は、いつ、どこで、誰と破裂するのか。どこでは日本。誰とはみんな。問題は「いつ」だ。(もしくは日中戦の敗戦か)

某が本書を執筆している2014/01/21現在は、アベノミクスという経済政策によって、明るい兆しが見え始めたと取り上げるメディアが多い。

アベノミクスのドル買いと円売りで、上場輸出企業の株価は上昇した。円安は輸出する大企業にとっては有利だが、日本は輸入の方が多い。国内のお金は、公社債と株と土地の金融市場へ向かう。虚業の株と土地へお金が向かえば、かつての金融バブルの再来だ。

現在の状況はかつての金融バブルよりも桁違いに深刻だ。日本の国債市場は国内の株式市場の10倍だ。0から1%台で回してきた長期債が、わずかな金利の上昇でも発行できなくなる。これで産業界のGDPが上がらなければ、政府通貨の発行か(させていただければ)スタグか(デフレの方がまし)破綻だ。国内にファイナンスしている国民みんなの金融資産が一瞬で消し飛ぶ。

いつ、米銀とファンドが先物のプットオプションと売り空売りを仕掛けてくるのか。いざ事が起これば、バブル時とは比べ物にならない。膨大な国債を抱えながらの異次元緩和はすぐに限界が来る。まず手が付けられるのは国民の年金医療介護だろう。

消費増税などの現代の諸政策を見渡して、あなたは未来をどう判断すべきだろうか。「みんな(数)のため」に、「あなたも公平に痛み分け」だ。(ここで言う「公平」とは実は公平ではないのだが)つまり・・・。最後は「みんな、「大丈夫!」って叫び合おう!みんな(より多くの数)のために!」だろう。

先日、フラッと入った定食屋で、TVが流れていた。韓国でかつて起こった経済危機に関するインタビューで、「国民の蓄え(お金)を使って国を建て直すという手段は?」という質問をしていた。

対する答えは「それは良いアイディアですね。公平です。さすが日本人だ・・・」という趣旨だった。一言に要約すると「国家のために国民の蓄えを使い尽くしたとしても仕方がない」という解釈だ。

趣旨への導入が強引で不自然だった(当時の韓国と同じ経済問題を抱えていた尼国と泰国の3国が共通して抱えていた原因はIMF傘下の中央銀行の引き締めが原因だった。現在の日本の状況と違う)ので覚えている。

TVを見ると、政府が世論形成をどう作ろうとしているのかが手に取る様に分かる。ドラマ一つ見ても分かる。TVは見方一つ、捉え方一つ変えれば、しっかり役に立つ。

私たちはどう判断すべきか。あなたが決めなければ、あなたは決められる。では、あなたは何を決められるのか。

もちろん、一国のマクロ経済などということは、僕たちに変えようがないことだ。自分1人で決められないことは、放っておけばいい。数に身を委ねる以上、どうせ、成るようにしか成らないのだから。

数に埋もれていない者こそが、新しい土俵を作ることができる。僕たちは、新しい土俵を作って、新しい相撲をすることができる。相撲は2人でできる。1人と、1人いればできる。某とあなたでできる。

1人がやることへの賛同は、覚悟を伴う。自ら知識を集め、知恵に転化させる。新しい価値を生み出す。
新しい価値とは、例えば、経済の中のお金の話で言えば、付加価値を上げて自分自身の実体経済を豊かにすることだ。ミクロな話になるが、自分だけが欲しいと思うニッチな商品やサービスを創造すれば、同じものを欲しい人は世の中にたくさんいるだろう。

それは新しい職業にもなるし業界にもなりえる。こうすることで、1人の「個」を「数」に変えさせるのではなくて、1人の「個」が新しい「数」を生み出したことになる。可能性はいつも極所の1人から興る。ミクロからマクロになる。

もちろん、そんなに革新的に物事を急ぐ必要はない。既存の数を少しだけずらせばいい。ここで言う、商品やサービスの「シェア」や「パイ」を少しずらすだけでも良い。

1人でやることが難しければ、近場の会社を訪ねたり、近所の自分と世代の違う人の意見を集めれば良い。いずれにしても人はどこかに住んでいるのだから、どうせなら、なるべく近場に必要な人が居る方が便利だ。

銀行へ依存しない直接融資は金融経済を実体経済に変える。お金への投資ではなく、事業を人生にできる。事業は人生であるべきだし、楽しんで進めるべきだ。商品やサービスの付加価値が高まる。

そんな集まりは日本中にある。産業界の人の集まりだ。いわゆる異業種交流会の類の団体だ。日本全国各地の市町村にたくさんある。そして、これらの団体はいずれも「地域のため」を標榜せざるをえない。

事実上、地域の人が集まっているために、彼らが標榜する最大公約数の数が、地域になるからだ。地域のためという数を標榜する以上、権威主義になるし保守主義になる。産業界のための集まりではなくなる。数の理に呑み込まれる。数に犯される。

一度数に犯されると、もっと大きい数からの外圧から逃れられない。地域より地方。地方より国家。国家より地球だ。目的と手段が入れ替わる。

みんなのため、より多くの数を標榜する集まりの方々は、ゆくゆくは、みんなでグローバリストを目指して、国内のみならず、国外へもボランティアをするご立派な偽善団体になっていただき、あなたがたが正しいと感じている数崇拝の民主主義と自由市場の資本主義を洗脳して、若者に武器を渡して回ればいい。

遺伝子組み換え食品でも原発でも何でも、どんどん新しい物を作って人体実験して、農地も荒廃させればいい。金も暴力も、統率するといい。

そういう人も、世の中には必要だ。ただし、そうでない人も必要だ。日本全国、それぞれの地域に、それぞれの地域の産業界に従事する「たった1人の人の為」の集まりが必要だ。この集まりは「地域のため」であってはならない。今までの順序と逆にすることだ。頑なに「数に逆らう」ことだ。

地域の産業界が数に逆らうことは、巡ってみんな(数に従わざるをえない人も含めて)のためになる。例えば、地域の活性化の源泉とは極所の1点から小さく興る。たった1人の人を起点として起こる。そして、それが少しずつ広がる。

広がった結果が地域の「マス」に見えてしまうだけで、最初からマスで始まるわけではない。マスになってからが、数に従う者の仕事になって本領を発揮できる。ゆえに、数に逆らう者と、数に従う者は、本来はお互いの強みを高め合う最良のパートナーだ。

産業界が数と対決することは地域の活性化のみに留まらない。日本国内のそれぞれの地域に根づく産業界こそが、日本国内の実体経済とGDPを上げることができる。「たった1人の人」の付加価値を増大させることを、全国規模で実行できれば、国家全体の経済問題も解決できる。

幸いなことに、現代は小さな技術で大きな可能性を生める時代だ。(※本書は哲学書である性質上、経済下の技術に関する説明は省く。詳細は某も参加しているブロガー協会のホームページに別記してある)

国内の立法行政司法は数に逆らえない。産業界は数に逆らう選択肢が残されている。数に逆らうことは、あなた1人にとっても良いことだし、数に逆らえない人のためにもなる。より多くのみんなのためになる。役割分担をし合うことがみんなのためになる。可能性に駆けることが出来るのは、私たち普通の人たちだけだ。

役割分担は個々人の個性にまで及ぶ。経済の中の話のみに留まらず、画一化と均一化を進めるグローバリズムと国内官製の諸政策の拡大と当時に、カウンターとして1人の個性は様々な場面で必要とされることになる。

ただし、ここで言う個性とは、全体を見渡した後での個性でなければならない。数に逆らえぬ者たちは、個性ではなく、分業をしてきた。彼らには全体は見えない。全体が見えないと、一つが見えない。私たちは全体と一つの端っこを同時に行ったり来たりで見渡さなければならない。

つまりこういうことだ。先に説明した現代の国内経済一つの話をする専門家は、見解の違う論者を攻撃し合う。お互いが違うソース(数値化された情報)を出し、違う主観で論じるのだから、そもそも違って当たり前だ。さらに言うと、例えば社会学など、別の分業先とは論じようもない。

もっと言うと、数値化されたソースだってどうにでも都合良く改変されてしまう。つまり、経済一つの話をするために、経済だけを見ていたら経済一つ語れない。目先の小さな現象に振り回され続けるだけで、いつまでも本質が見えない。

この原理原則は経済問題のみに限らない。全ての問題の同根だ。もし、全体を見渡す知恵があり、かつ、数を振り切って実行する勇気があれば、津波による死者もなかったし、原発事故もなかったし、そもそも、原発もなかった。

分業したままでは互いの壁を乗り越えられない。全体を眺めて、初めて一つが見える。それを超えれば、一つを見て、全体が分かる。流行り一つ。言動一つ。仕草一つ。一つから全てへ。全てから一つへ。その一つの質の極こそが、やがて数をも乗り越える。

今を生きる日本人は、
一歩先を注視している。
もっと言うと、
他人の踏み出す一歩を注視している。
我慢できずに一歩踏み出そうとするとき、
多数の他人に判事を求める。
求めれば止められる。
かくして自分も他人を止める。
自分を止めた他人に責任を求め、
自分も他人から責任を求められてうろたえる。
かくしてそれを繰り返す。

今を生きる日本人の中で、
一部の賢者は、
暗く深い井戸の底で、
ただただ深く自問自答して考える。
学ばずして学び方を身につける。
井戸から出て高台に登り、
ずっと遠くを見渡す。

今を生きる日本人は、
自分たちと同じ土俵にいない、
高台に登った賢者を「ずるい」という感情で妬む。
賢者を高台から下し、
自分たちと同じように、
互いの足元を注視させたい。
そのために、
高台の護衛が手薄になればこの高台を壊す。

壊される前に高台から指示が出されれば、
指示に従うふりをする。
指示に従う人が増えてきたことを確認してから、
高台からの指示を信じる。
つまり、
数を信じる。
数に支持された賢者を信じることはできても、
賢者を理解することはできない。

今を生きる日本人が信じる対象とは、
より多くの多数派に支持された力と権威。
それによって支持された現代日本社会のみに通じる偏狭な常識。
つまり、
より多くの数である。

今を生きる日本人は、
より多くの数の支持された、
より多くの正義のために我慢することを他人へ推奨する。
より多くの正義の最たるものは環境問題だ。
環境問題は国境を越え、
世界全人類のためになると感じられるからだ。
他人に推奨するうちに自分も始める。
善意の現代人はより多くの正義のために自分自身を我慢させる。
より多くの人の役になっていると感じられるからだ。

自分の行動を見た他人が自分と同化することに喜びを感じる。
日本人が『自分は(個体としての自分が)認められた』と感じることで喜びを感じる。
この喜びは薄い。
自分で決めた喜びではないからだ。
数によって予め定めされた喜びだからだ。

世の為人の為を装いより多くの他人からのうわべの信用を得るために、
自分の人生をすり減らす。
現代人はより多くの正義の建前の元でしか自分の個性を表現できない。
我慢を尊としとして個性を重んじない。
絶対的で精神的な自分の事の質より分かりやすい相対的で物理的な数を重視する。
数の大小ばかりが気になる。

多数派を占める日本人であれ、
一部の賢者であれ、
多くの個人は個人の善意で動く。
集団は一部の個人の利害で動く。
多数派を占める日本人と一部の賢者の善意は、
集団の利害とぶつかる。

集団の利害が「みんなのため」を標榜して、
ひとたび仕組みを作り上げると、
その仕組みを個人の善意で崩すことはできない。
なぜならば、
集団の利害が作り上げた仕組みは、
多数派を占める日本人の善意を装っているためだ。
多数派を占める日本人は偽善と偽悪を見破ることは出来ない。

多数派を占める日本人の善意とは大衆性を纏った独善的な善意である。
多数派を占める日本人の善意を集団の利害が上手く取り込むことによって、
善意は悪意に姿を変える。
多数派を占める日本人は悪意が作り上げた仕組みを善意で迎えるのである。
善意を取り繕った悪意は賢者の善意と対立する。
かくして賢者の善意は孤立する。
善意よりも悪意のスピードが速いのはこのためである。

私たちはなぜこのような今を招いてしまったのか。
現代社会は高度に複雑化した。
一人の人間は、
それぞれ違う場面において、
それぞれ違う役割を担うこととなり、
それぞれに関わる物事を、
自分自身で考えて、
決定することが困難になった。

そこで、
一人で考えて思い及ばない物事を、
数を頼みにして分かりやすく解釈することにした。
問題をなるべく細分化して、
二項対立で善悪を決める。
そのために数に変える。
数に自分自身の判断を委ねたために、
責任の範囲が広がりすぎて、
どこまでが自分なのか分からなくなった。

他人を指差す代償として、
自分自身をも黙殺させる。
臭い物には蓋をして、
見ぬふりを続けた。
そのうち、
自分自身にも素通りするようになった。

本来ならば、
自分自身の内面から溢れるはずであった自己への愛は、
社会的で相対的な評価という数に代わった。
「みんなのため」を標榜して数に尽くしつつ、
自分自身の内面は他の誰よりも自分自身を優先させようとする、
自分自身の理解を超えた心の矛盾が、
妬み僻み・ヒステリーや躁鬱となって現れた。

今を生きる日本人は誰もが神など信じていないと信じている。
それは嘘である。
今を生きる日本人の全てが同じ神を信仰し続けている。
現代の神は今を生きる日本人の感じ方・生活の全てを掌握した。
現代の神は『数』に姿を変えて個を制し、
制した業に個を連座させ合う。
連座しない個を名指しで特定し許さない。
私たちが創った現代の神は不寛容である。
現代の神の下では個性を重んじることも夢を残すことも不可能だ。
あなたの可能性も根絶やしにされる。
この神を信仰する現代人は『現代日本病』である。

現代日本病を治すためには、
あなたは現代の神の下を離れて、
あなたのためだけに新しい哲学が必要だ。
この哲学こそを、
『数との対決』とする。

より多くの数、
みんなの為に成ることは、
だれか一人の為に成らない。
だれか一人の為に成ることこそが、
廻って、
より多くの人の為になる。

より多くから、
たった一つへ。
たった一人へ。

今を生きる私から、
今を生きるあなただけへ。

あなたの延長に日本全体があり、世界がある。世界を覆い尽くさんとする数を質で覆す一瞬の陰陽をもって数と対決する超新田思想を説明したい。数を産んだキリスト一神教を超え、価値体系の対立を産んだアブラハムと和解することが出来たならば、世界から戦争さえも無くす事が出来るかもしれない。とか、バカな事を真剣に考える様になってしまった。

一体どうしたら良いのか見当も付かない。無理だ。全く解らない。だからこそ某は面白く感じているのか。まずは小新田思想から書くとするか。ところが、無名の某が本を書いて出版した処で、本は全く売れないだろう。全部自分で買い取って、その辺の知人や、近所のジジババに配っても、「読んでくれたら聞いてやる」などと注文を付けられた上に、某が読み始めたら寝る手筈だろう。自信を持って言える。

本を出版する事よりも、誰でも無料で視聴できる動画を創った方が良さそうだ。某は動画の作成に取り掛かりました。